カテゴリ:東京歴史探訪( 15 )
歴史探訪 『常磐橋』 『常磐橋御門』
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現在、常盤橋は「常盤橋」「旧常磐橋」「新常盤橋」の3つあります。真ん中の「旧常磐橋」が明治10年にかけられた由緒正しい橋だそうです。人もあまり通らず、雑草も生えちゃって、ちょっとボロッちぃ印象の橋ではありますが、都内にある石造アーチ橋としては古いもののひとつなんですって。常磐橋御門の石垣に使われていた石で作られてます。ちなみに、都内で最も古いのは小石川後楽園の水戸光圀築造の橋だそうです。
a0025910_031013.jpg「常盤橋」から「旧常磐橋」を撮影。橋の上は高速道路が通っているため、柱などでしっかり見えませんし、なんとなく圧迫感がありますよね。本当なら、「旧常磐橋」を渡りきり、斜めの角度から写真がとれたら橋がみやすいのですが、そこにはブルーシートがありまして、近づくことがままならないです。

a0025910_9463849.jpg橋の上から石塁を写しています。ブルーシートが写っていますでしょ。あの場所から橋を撮りたかったのですが。。。

a0025910_9455845.jpg「旧常磐橋」を渡ると常磐御門跡です。ここが江戸城の大手口門に続く、外堀の正門。今は高さ4mの石塁が保存されており、常盤橋公園になっています。枡形門でその奥にまた門があるという二重形式の門でした。一石橋はこの旧常磐橋の近くにかかる橋。そこに一石橋迷子知らせ石標がありますが、常磐橋御門が江戸城の正門だから、人通りが多かったので、尋ねたり知らせたりするのに適していたんですね。これで納得。

a0025910_9453796.jpgここは常盤橋公園。枡形門を利用して作られています。お昼休みにキャッチボールをしている人が・・・。こういう光景ってドラマでみるくらいだったのですが、実際に遭遇したのは初めてだわぁ。

a0025910_9461819.jpg石塁はやはり立派ですね。

a0025910_9465682.jpg公園には史跡の保存に尽力した渋沢栄一の銅像があります。第一国立銀行の頭取をしていた人だわ。日本の近代経済を築いた方です。

a0025910_02957.jpgこちらは「常盤橋」。常盤と常磐の使い分けがあって、ややこしくなってきますよね。

a0025910_9471018.jpg一石橋から常盤橋を撮影。こちらの橋は人も車もよく通ってます。

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by pocoli | 2005-06-28 23:29 | 東京歴史探訪
歴史探訪・日本橋 『竹久夢二 港屋跡』『一石橋親柱』『一石橋迷子しらせ石標』
a0025910_0115130.jpg『竹久夢二 港屋ゆかりの地』
一石橋の近くに『港屋跡』があります。大正三年(1914年)に竹久夢二が自分のデザインの版画、封筒、カード、絵葉書、手拭、半襟などを売るためにこの地に「港屋絵草紙店」を開店。自分の作品を商品化するという、商業美術史上重要な意義をもつということから、ここに記念碑をたてたそうです。記念碑には「宵待ち草」が書かれています。
「まてど暮らせどこぬひとを
 宵待ち草のやるせなさ
 こよひは月もでぬさうな」
この「港屋」で笠井彦乃と出会って、二人は恋に落ちて結ばれるわけよね。ふむふむ。今でも日本橋浜町に「港屋絵草紙店」はあるんだそうです。
a0025910_317025.jpg『一石橋親柱』
この橋の名前の由来は大変楽しいんです。橋の北側に金座(現・日本銀行本店)があり、御金改役の「後藤家」屋敷が近くにあり、橋の南側に呉服商人「後藤家」屋敷があったため、五斗(ごと)+五斗(ごと)=一石になったというのです。ダジャレですね。昔の人はユーモアがあって粋ですねぇ。
a0025910_2595460.jpg『一石橋迷子しらせ石標』
安政4年西河岸の家主たちが建立した庶民の告知板です。高さ約1.8メートルの石柱で、正面に朱で「満よひ子の志るへ」、左面に「たつぬる方」、右面「志らする方」と刻み、年頃、面体、格好、履物、衣類などを書いた紙を貼るようになっています。右面、左面の四角いくぼみ部分に紙を貼るようになっていたみたいです。
それだけ人通りが多く、迷子も多かったということなんでしょうね。この石標のおかげで、何人の迷子がみつかったんだろう。

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by pocoli | 2005-06-19 23:48 | 東京歴史探訪
歴史探訪・日本橋 『海運橋』 『銀行発祥の地』
郵便発祥の地(日本橋郵便局)の裏手の方には海運橋の親柱が残っています。a0025910_9535217.jpg
『海運橋』
橋の東詰 海賊奉行(御船手奉行)向井将監の屋敷があり、将監橋とか海賊橋と呼ばれていたのですが、明治改元の際に、海運橋と改称。明治8年に石橋になってから有名になったんだそうです。海運橋なんて全然知りませんでした。楓川と日本橋川が合流する入口に架かっていた橋なのですが、今は川は埋め立てられ、高速道路が通っています。このあたりはす高速道路で埋め立てとか多いですわね。海運橋を渡ると第一国立銀行があり、橋・銀行ともに文明開化を象徴する場所で有名だったんだそうです。今はとても有名な場所であったとは思えません・・・。
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a0025910_9562755.jpg『銀行発祥の地』
海運橋の親柱を過ぎ、高速道路の下を通るとみずほ銀行が見えてきます。ここが銀行発祥の地なんですって。
「この地は明治6年6月11日(1879年)
わが国最初の銀行である第一国立銀行が
創立されたところであります
             昭和38年6月建立」
このような銘文が刻まれています。
三井組が建てた「三井組為替方」で、当時は「三井組ハウス」と呼ばれていたんです。
当時の写真をみつけましたが、素敵な建物。今、もしこの様式で建っていたなら、この建物が観光になっていたろうに。。。残念。
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第一国立銀行
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by pocoli | 2005-06-18 23:15 | 東京歴史探訪
歴史探訪・日本橋 『名水白木屋の井戸』 『郵便発祥の地』
a0025910_2561295.jpg『名水白木屋の井戸』
コレド日本橋裏を歩いていたら、『名水白木屋の井戸』という記念碑をみつけました。この記念碑の横には水が流れておりまして、この水は名水なのかぁと感動してみておりましたが、今は消失してしまって東京都指定の旧跡として記念碑があるだけだったのです。横に流れる水は名水ではないようで・・・。白木屋とは日本橋交差点角にあった東急百貨店の昭和33年までの屋号だそうで、2代目大村彦太郎が正徳2年に掘った井戸が「白木名水」と広く知れ渡ったそうです。でも、この記念碑がなかったら、私は白木屋の井戸の存在を知らなかったでしょう。白木屋=東急っていうのもわからなかったかも。居酒屋?って思ってたかもですよねぇ。

そして、日本橋郵便局へと向かいました。


『郵便発祥の地』
a0025910_2553446.jpg日本橋郵便局に行ってみると、こちらは郵便発祥の地だったのですね。建物に思いっきり記念碑が貼り付けられてます。うむ、わかりやすい。近代的な郵便制度は明治4年(1871)前島密によって発足し、東京-大阪間で始まりました。日本橋郵便局は駅逓司(今の郵政省)と東京の郵便役所(今の中央郵便局)が置かれたところなんですって。前島密の胸像もありました。記念碑と胸像は昭和37年に建てられたそうです。郵便ポストもかわってますね。
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by pocoli | 2005-06-17 23:24 | 東京歴史探訪
歴史探訪・日本橋 『日本橋魚河岸記念碑・さらし場跡・高札場跡』
a0025910_2334128.jpg『日本橋魚河岸記念碑』
日本橋の北詰東側に椅子に椅子に座った女性の像があります。これは『日本橋魚河岸記念碑』。女性像は竜宮城の乙姫様。摂津の漁民が佃島に移り住み、幕府に魚をおろしていたが、その後、一般にも営業するようになり、それが日本橋魚河岸のはじまりだそうです。記念碑が乙姫なのは「日本橋 龍宮城の 港なり」といわれ、龍宮城の住人である魚がすべて集まるという意味からきているそうです。大正12年(1923年)、関東大震災で被災し、築地に移転しました。


a0025910_240587.jpg『さらし場跡』
日本橋の南詰東側に『さらし場』がありました。今現在、日本橋交番がある付近が『さらし場』です。小屋掛けをして囚人をしばりつけ、さらし者にしたとか。主に女犯の僧、心中未遂者などがさらされたようです。

a0025910_2414523.jpg『高札場跡』
日本橋の南詰西側に『高札場跡』があります。現在は、高札をかたどった記念碑が建っています。江戸時代、ご禁制や公示の掲示をしたのが高札。日本橋の高札は、人通りの多さからとても重視されていた高札でした。
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by pocoli | 2005-06-06 20:17 | 東京歴史探訪
歴史探訪・日本橋 『日本国道路元標』
a0025910_2143894.jpga0025910_2145420.jpg『日本国道路元標』

日本橋の北詰西側に『日本国道路元標』と『東京市道路元標』があります。
明治に日本橋が国内諸街道の起点と定められ、その起点になるのが『日本国道路元標』。
日本橋の中央が起点と定められて、『日本国道路元標』は当時柱だったのですが、道路の整備により、柱からプレートに変わりました。それと同時に『東京市道路元標』も橋のたもとに移されましたが、『日本国道路元標』のプレートは今も日本橋の中央に埋め込まれているんです。
道の中央まで行って写真はとってこれなかったわ。。。
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↑こちらは橋のたもとにある記念碑。  こちらは橋の中央に埋め込まれたプレート。↑
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by pocoli | 2005-06-05 12:19 | 東京歴史探訪
歴史探訪・日本橋 『日本橋』
職場が日本橋方面になったので、日本橋界隈の歴史探訪をしてみることにしました。少しずつ探訪し、アップしていこうと思います。ランチタイムを利用しての探訪なもので、なかなか一気にまわれませぬ。
a0025910_214527.jpg『日本橋』
江戸時代以前、この一帯は湿地でひなびた漁村だったそうです。徳川家康の江戸入府をきっかけに、神田山(駿河台)を掘り崩した土で湿地を埋め立て、商業地へとかわっていきました。日本橋は1603年(慶長8年)に創架されました。現在の橋は、1911年(明治44年)に開通した石造二連アーチ型石橋。
今は橋の上に高速道路が通っているため、ちょっと閉塞感があるんですよね。立派な橋で広いけれど、、、残念だわ。
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橋の柱にある日本橋の文字は、十五代将軍、徳川慶喜の手によるものだそうです。

a0025910_1573563.jpga0025910_1575066.jpg青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の「繁栄」を、獅子は「守護」をあらわしているんですって。
照明灯も高速道路の間にたっているので、真下に行かないと上の方が見えないんですよね。もったいない・・・。


日本橋の柱の文字
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by pocoli | 2005-06-04 23:08 | 東京歴史探訪
京橋 歴史探訪②
a0025910_0311234.jpg『江戸歌舞伎発祥の地』
京橋のすぐ手前の一角に記念碑があります。江戸歌舞伎発祥の地はここ京橋だったんですね。だから今の歌舞伎座もここからそんなに遠くない東銀座にあるのかしらねぇ。
中村座の始祖・猿若勘三郎が1622年(元和8年)に「猿若座」の櫓をあげ、1624年この地に太鼓櫓を許されたのですが、江戸城に近いため長谷川町に移転し、のちに境町へと移転しているそうです。太鼓櫓って、時代劇でみたことあるわね。

a0025910_0355170.jpg『京橋大根河岸青物市場跡』
「江戸歌舞伎発祥の地」の記念碑に隣接してこちらも記念碑がたっています。
京橋から紺屋橋にかけて京橋川河岸は大根を中心とした野菜の市場。「大根河岸」とも呼ばれていたそうです。関東大震災後、区画整理などで大根市場は野菜市場となって神田、築地にうつされています。

a0025910_0461012.jpg『安藤広重住居跡』
京橋一丁目にある江戸時代末期の浮世絵師・安藤広重(1787~1858)の住居跡。「東海道五十三次」「名所江戸百景」を描いた人ですね。ビルが立ち並ぶ道に、ぽつんと標札があるだけで、うっかり見逃してしまいそうです。
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by pocoli | 2005-05-30 01:19 | 東京歴史探訪
京橋 歴史探訪①
以前職場があったのでよくうろついていた京橋。2月いっぱいで移転してしまったので、それを記念して(なぜだぁ?)ちょっと歴史探訪してみました。
京橋の名前の由来は、「京から下ってきた業者がこの付近で遊女屋を営んでいたから」、「日本橋から東海道を京都へ行く時に通る橋であるから」等といわれているらしいですが、京都に行く時に通る橋なんていったら、たくさんあるだろうになんて思ってしまいます。
『京橋 親柱』
日本橋同様、京橋の上も今は高速道路が通っています。しかし日本橋と違うのは京橋川が埋め立てられ、橋も撤去されてしまっていること。知らなかったらここに橋があったことも川があったこともわかりませんよね。今は高速道路の下になっていますが、以前橋があった場所に『親柱』があります。北詰東側と南詰西側にある親柱は1875年(明治8年)当時の石造で擬宝珠の形です。なんでも江戸中期、この擬宝珠に縄を結んで願うと咳止めに効くといわれたそうです。
南詰東側の柱は、1922年(大正11年)に架けられたときのもので、道の向こう側にある交番はこの親柱と同じ形にしているんですよ。
        北詰東側親柱        南詰西側親柱
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        南詰東側親柱           交番

a0025910_0564149.jpg『煉瓦とガス燈』
この記念碑は南詰東側親柱の隣にあります。1872年(明治5年)に銀座大火によって銀座が全焼してしまった。再建にあたり、不燃性建築をすすめるため煉瓦を採用。床の煉瓦は当時使用されていたもので、当時のままの「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は明治7年の実物を使用しています。

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by pocoli | 2005-05-29 23:14 | 東京歴史探訪
討ち入り
a0005828_130459.jpg14日の午前3時に忠臣蔵、赤穂浪士は吉良邸に討ち入りをしたそうです。あと数時間。
画像上は虎ノ門のニッショーホールのオブジェ。この場所は江戸時代元禄年間に幕府の大目付仙石伯耆守の屋敷跡。赤穂浪士たちが吉良邸討ち入りの後、泉岳寺から身柄を移された場所で、邸内で足を洗ったという「義士洗足の池」があったとされている。
新橋にある『浅野内匠頭終焉の地』。浅野内匠頭が自刃させられた、田村右京大夫建顕の屋敷跡。殿中刃傷事件後、わずか7時間後の自刃で、午前5時だったそうです。辞世の句は「風さそふ花よりもなお我はまた 春の名残を如何にとかせん」。浅野内匠頭は将軍綱吉と柳沢吉保に憎まれていたのですね。犬公方・・・犬ばっかり大事にしないでよね。
明日は泉岳寺、人がいっぱいだろうなぁ。行ってみたい。
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by pocoli | 2004-12-13 23:55 | 東京歴史探訪