「ルオーとローランサン展」へ
音楽/1441
a0025910_1037248.jpg松下電工汐留ミュージアムで開催されているルオーとローランサン展に行ってまいりました。今年はマリー・ローランサンの没後50年ということで、それでこの展覧会の企画があったよです。
マリー・ローランサンの絵を、ローランサンの人生と照らし合わせて見てみたいと思っていたので、ちょうど良かったんです。昨年7/26に「絵のなかのふたり」にも書いたのですが、ブリジストン美術館でローランサンの絵を見て、そこに書かれていた説明を読んで、ローランサンの生涯にものすごく興味を持ったのです。
男鹿・表紙1924
a0025910_1518759.jpgマリー・ローランサン(1883-1956)の生涯をちょっとご紹介。
1883年に母・ポリーヌは未婚でマリーを出産。父はソム県ペロンヌの代議士だが認知されていない。1904年、画塾アカデミー・アンベールに入り本格的に絵画の勉強をし、そこでジョルジュ・ブラックと出会う。1906年、ブラックの紹介でモンマルトルの集合アトリエ「洗濯船」の常連となり「洗濯船のミューズ(女神)」と言われるようになり、男性たちをとりこにする。ピカソやマチス、ルソー、マックス・ヤコブらと出会う。最初の恋人、小説家アンリー・ホエール・ロシェはマリーの絵を画商に売り込み、うれなければ自分が購入していた。1907年、ピカソの紹介で詩人ギョーム・アポリネールと恋に落ちる。アポリエールはマリーに詩的霊感を与え、また多くの人を紹介し画壇のプリンセスへと押し上げていった。アポリネールは自身は浮気をくりかえすものの、マリーの自由は認めず束縛し、2人の間に亀裂が生じる。アポリネールがルーブル美術館で起きた「モナ・リザ」盗難事件の共犯容疑で逮捕される。疑いは晴れたが、その後アポリネールがますますマリーを束縛し1912年にアポリネールと別れる。1913年、母・ポリーヌ死去。アポリネールとの亀裂、母の死と孤独にさいなまれている中、ドイツ名門貴族で画家のオットー・クリスティアン・フォン・ヴェッチェンと出会う。1914年、ヴェッチェンと結婚したが、第一次世界大戦勃発。スペインへ亡命。その後5年間はスペイン政府にスパイ容疑をかけられ監視下におかれながらの亡命生活。夫はは粗野で数多くの愛人をつくり家を空けることが多い。結婚生活は実質三ヶ月ほど。マリーは次第に神経が衰弱していく。ピカソが相手かまわず「スペインに行ってから才能が衰えた」と吹聴しているというのを耳にし、マリーは一層傷つく。パリに住む人気デザイナー・ポール・ポワレの妹・ニコル・グレーが失意の慰めであった。この交流がマリーに同性愛を目覚めさせた。ニコルがパリに戻ると前より増して孤独感にさいなまれ、寂しさを紛らわせる為に愛人達とつかの間の恋をする。かつての恋人、フランス将校として戦地にいるアポリネールのことも頭からはなれずにいた。そんな中、アポリネールの結婚を知り、衝撃を受ける。アポリネールは生涯独身であると勝手に思い込んでいたのである。そして、アポリネールが戦地で負傷し危篤の知らせ。酒に溺れ働かず財産を食い潰す夫、マリーは絵を売って生活費にあてるが、経済的に行き詰っていく。ニコルも戦争から夫が戻ると子供をもうけ、マリーを拒むようになる。パリに戻りたいという想いが高まり、1921年フランス永住許可を得てパリへ。個展を成功させ再び画壇に返り咲く。1922年ヴェッチェンと離婚。1923年に肖像画を描き始める。作品も憂いがなくなり華やかさを増し、マリーに肖像画をかいてもらうことが社交界での流行となる。ジャンコクトー台本の「牡鹿」舞台装置と衣装をも担当。また、画壇の中心として華やいだ時間が過ぎる。しかし、次第にマリーの絵も時代遅れとみなされる時がきて、忘れ去られるようになってくる。老いから女の魅力も失われてくる。家政婦でかつ愛人であった21歳年下のシュザンヌ・モローは嫉妬心からマリーを束縛。友人や他の愛人をマリーから遠ざけさせた。捨てられることを恐れたマリーは言われるまま。1954年には彼女を養女にむかえる。そして、1956年、72歳の時に心臓発作で死去。寂しい最後であった。

ローランサンの人生と絵画を照らしあわせてみると、心のうちが少し見えてくる気がしました。



a0025910_10222641.jpg舞踏/1919

まさに亡命中の絵。グレイッシュで陰鬱な雰囲気が漂っていますよね。楽器を持っている中央の人物はまさにローランサンそのものとか。
精神的に不安定な時期の絵は、人物がのっぺりしていて、影が薄く存在感がないよな印象をうけました。

a0025910_1022029.jpg三美神/1921

パリに戻った頃でしょうか。多少華やかになってますね。

a0025910_1021146.jpgアルルキーヌ(女道化師)/1940

パリに戻って絶頂期でしょう。とても華やか。見ているこちらも心が華やかになってきます。人物も立体的で存在感があるように感じます。


【ジョルジュ・ルオー(1871-1958)】
a0025910_10242795.jpg踊り子と白い犬/1920-29

a0025910_10245043.jpg女曲馬師・人形の顔/1925

a0025910_10253741.jpg小さな女曲馬師(流れる星のサーカスより)/1935

a0025910_10255858.jpgマドレーヌ/1956


【ジョルジュ・ルオー(1871-1958)略歴】

1871年 5月27日、パリ・コミューンの崩壊前日、砲撃の中生まれる。父アレクサンドルは家具職人。
1885年 父の勧めでステンドグラス職人のもとに徒弟奉公に出る。古いガラスの修復に従事しつつ、夜は装飾美術学校で素描を学ぶ。(~90年)
1890年 画家になる決心をし、国立美術学校に入学。エリー・ドローネの教室に入る。
1892年 ドローネの後任にギュスターヴ・モローが就任。キリスト教主題の作品をレンブラント風に描く。
1894年 「博士たちの間の幼きイエス」によりシュナヴァ-ル賞受賞。
1895年 ローマ賞に再度応募するが落選し、師モローの勧めに従い美術学校を退学。
1898年 モロー死去。
1903年 パリにモロー美術館が開館し、モローの遺言により初代館長に任命。この頃から道化師や娼婦を描き始める。
1904年 サロン・ドートンヌに作品を出品。観衆は一連の「黒い絵」を嘲笑。
1908年 「法廷」の連作、貧しい農夫、労働者の絵を描く。人間の内面にまで踏み込んだ表現主義的な描写を試みる。
1913年 ルオーの陶器に興味を抱いた画商ヴォラ-ルが、今後の全作品を購入するよう申し出る。
1917年 画商ヴォラ-ルと専属契約を結ぶ。『ミセレ-レ』、『悪の華』などの版画集を計画。
1918年 油彩画に専念。「キリストの受難」等宗教的主題が多くなり、色彩は鮮やかに、マティエールは豊かさを増し、表現はさらに凝縮されて重々しくなる。
1924年 ドリュエ画廊で大回顧展開催。
1929年 日本人実業家の福島繁太郎と最初に出会う。
1930年 版画集『流れる星のサーカス』、『受難』を制作。30年代は道化師、裁判官、聖書風景、キリスト像など大型の油彩を輝く透明なマティエールで描く。
1937年 パリ市プティ・パレ美術館で回顧展開催。
1941年 アメリカ各地で巡回展。以後青を基調とする厚塗りで芳酵なマティエールの小型の作品を描く。
1951年 黄色味を帯びたキリスト教的風景画が表れ、平和で神秘的な情景が多数描かれる。
1955年 ローマ法皇ピウスよりグレゴリオ大勲章を授与される。
1958年 2月13日死去。17日、サン・ジェルマン・デ・プレ教会で国葬。
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by pocoli | 2006-07-01 17:23 | 美術展など
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